2007年7月1日日曜日

「何か人の役に立つことをやってもらいたい」 衛藤(えとう)さんが政治を志したきっかけ


衛藤(えとう)さんが政治の世界を志したきっかけは「何か人の役に立つことをやってもらいたい」という死の床からの母親の言葉でした。

高校一年生のとき、衛藤(えとう)さんは病弱だった母親を亡くしてしまうのですが、病院で死の床についている母親からのこの言葉が衛藤さんを障害者福祉ボランティアそして、福祉行政の転換を充実を志しての立候補へと駆り立てるのです。

衛藤(えとう)さんは当時を振り返ってこう語っています。(以下 「えとう せいいち物語①」(衛藤晟一後援会編)より引用、右上写真も同引用)

身障児を抱えるお母さんから、次のような言葉を聞いたのです。 「実はこの子の障害が判った時、この子を殺して自分も死のうと何度考えたか判らない。しかし、今はこの子と共に生きようと決意して育ててきたが、この子が働く場所がない。自分たちがいなくなった後のことを考えると、この子を自立させ、将来ともに安心できる施設が欲しい」

障害者とその家族が必要としているのは、お金をばらまくことではない。ハンディはあっても、残された能力を最大限に生かし、それを社会の中に生かす。障害者に社会の中で生きがいをもって働く場所を作ることこそ福祉ではないか。――そう考えて福祉行政の転換を図るべく、僅か二十五歳で大分市議選挙に出馬し、見事に当選したのです。

以来、障害者の能力を引き出し、社会の中で自立できるようにしていく「福祉」に転換すること子供たちに愛情と安らぎを与える「家族」と「地域社会」を守ること、そして障害者とも共存できる、思いやりのある子供たちを育てるため道徳をきちんと教える「教育」に改善すること――そのために三十年間、全力投入してきたのです。
平成十七年九月、福祉関係者の会合で、知的障害をもつ親の会である「大分県手をつなぐ育成会」の斎藤国芳会長は次のように語っています。

「私は、えとう先生が弱冠二十五歳で、大分市議会に通られたときから育成会の顧問として三十年にわたって、いろいろとお世話をしていただきました。衛藤先生ほど、知的障害のことを理解してくださる先生はおられません。先生がもし選挙に落ちたら、私たち知的障害の親たちの将来は真っ暗になってしまいます。ですから、どうしても国会に戻っていただいて、私たち障害者のために改革を続けていただきたい」

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